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―アリス、僕についてきちゃだめだ。君までハートの女王に殺されてしまうよ。
でもうさぎさん。私はあなたを追いかけなくちゃ。でないとお話が止まってしまう。
―いかいアリス。お話はもう終わりだ。眠りねずみも帽子屋も消えてしまったんだよ。そして僕も、ね。君はもう、何も知らないアリスではいられない。もう誰もアリスを守れないんだ。だからねぇ、アリス…。
白いうさぎが走っていく。追いかけなくちゃ…。だってあの子、ベストに時計を入れていたわ。時計を持ったうさぎなんて、初めて見たんだもの。どこに行くのかしら。走りだそうとした私を引き留めるのは、黒い色の…。
「…猫?」
自分の呟きで目を覚ましたのは初めてのことだ。もっとも、それが自分の言った言葉だと気づくまでに多少のブランクが生じたけど。まだなんとなく体がだるい。ここは…どこだ?
「類っ、起きた?」
突然視界に飛び込んできた顔。どこかで見た…いや、いつも見ている顔だ。
「真陽…」
からからの喉で言葉を吐き出す。辺りを見回すとそこは紛れもなく俺の部屋だった。
「はい水。いきなり倒れたから焦ったよ。アリスちゃん、類起きたよ」
持ってきたコップを俺に渡して、真陽は振り返る。その目線をたどった先に、アリスはりょこんと座っていた。首の怪我は真陽が治療してくれたらしい。俺の右腕も同様だった。
「ありがとう」
潤った喉で真陽にお礼を言って、きちんとアリスを見据える。
「アリス、ちゃんと話してくれ。でないと俺はお前を守れない」
怪我をして倒れて…散々な目に遭ったくせに、嘘偽りなくそう思った。アリスを守りたいと。俺は普通の大学生で運動神経が言いわけでも特殊能力を持っているわけでもない。危険なことは冒したくないし、大型連休にはだらだらと休みたい。でも、脅えたようなアリスの声は本物だったから。そんな子を一人放っておけるほど、俺は冷酷じゃない。一度助けちゃったし。
「私…ハートの女王に嫌われちゃったのかしら。トランプが、トランプの処刑人が…私の首をはねてしまうわ」
震える声で坦々と告げるアリス。わけのわからない話だが、あんなことを経験した後だ。こんな話でも信じられる。ハートの女王の…トランプ。ハートの女王は脅しとかじゃなく確実に、アリスを殺そうとしているってことか。
「とにかくあのトランプからアリスちゃんを守ればいいって話だよね!」
考え込む俺の肩を真陽がぽんっと叩いた。いつもと同じ明るい笑顔。
「真陽、ごめん。妹じゃないんだ…」
あんなおかしなことに巻き込まれてるからもうばれてるだろうけど。
「いいよ。なんか事情があるんでしょ?」
俺だっていきなりあんな目にあったら嘘つくよと、真陽は笑った。なんか順序がごっちゃになってる気がするけど、いいか。
「…頑張ってね。チェシャ猫じゃアリスは守れないから」
「え?」
真陽の言葉が聞き取れず、聞き返す。
「もう少し寝てなよ。何か作るから」
俺の問いかけが聞こえなかったのか、真陽は立ち上がって去って行った。
「あぁ、ありがとう」
その後ろ姿に声をかけて見送ると、アリスと二人きりになった。不安げな瞳が俺を見上げる。
「大丈夫だ」
なんの根拠もないけどアリスを安心させたくて、そう言葉が勝手に出てきた。トランプが何枚追ってこようと、何とかしてやる。アリスがほほ笑んだのを見て、再び俺の意識は沈んでいった。そのまま朝までぐっすりだった。
長い長い連休の朝が明けた。
「…夢か」
一昨日の朝と何も変わらない部屋を見て思う。窓も割れたないし、クッションもそのまま。寝坊しそうな俺を起こしに来る少女もいない。アリスという名の少女も、意思を持って動くトランプも、俺が作り出した幻だったのだ。
「…ってことは今日は何日だ?」
体を起こそうと右手をついた瞬間ずきりと痛んだ。…前言撤回。どうやら夢なんかじゃないようだ。
「アリス…」
俺の隣で、すやすやと安らかに純白の少女が眠っていた。どうやら平凡な大型連休はやってこないらしい。よく見たら床には真陽が転がってるし。アリスを起こさないように重たい体を動かしてベッドから降りる。さて、どうしよう。いつまたトランプが襲てくるかわからない。つまりトランプを全部倒すまで俺に平穏な日々はやってこないってことか。
「厄介なことになったな」
ゴールデンウィークは予定がないけど、学校が始まったらまずい。トランプって五十二枚だっけ?どれだけ長期戦になるのか。ていうかそもそもハートの女王って…。
「…誰だ?」
昨日はアリスの話に納得してしまったが、現代の日本に"女王"と呼ばれる人物は存在しない。まぁアリスの話は普通じゃないからそんな常識的な話は通用しないだろうけど。
「ん…帽子屋さん?」
一人で考え込んでいると、寝ぼけたアリスの声が聞こえてきた。どうやら起きたらしい。それが俺に対する呼称だと認識しているので、アリスの方へと足を向ける。
「いやっ…帽子屋さん!帽子屋さん!」
急に響いたアリスの悲鳴のような慌てた声に驚いて急いでそっちに向かう。
「アリス!?」
アリスは俺のベッドの上で取り乱していた。布団をはぎ取って、シーツをぐちゃぐちゃにして。
「あ…帽子屋さ…」
その大きな目からはらはらと涙を溢して、泣いていたんだ。どうやら気にしなきゃいけないのはトランプのことだけじゃないようだ。
「アリス…」
「帽子屋さんっ!また、いなくなってしまったのかと思った」
ふらつきながらアリスは俺のところへ駆け寄ってきて抱き着く。倒れ込むようにぶつかってきたアリスを俺はしっかりと受け止めた。またって何だよ。帽子屋って、何者なんだよ。一体、俺に誰を重ねているんだ。固まってアリスを眺めているとベルが鳴った。
「…待ってろ」
アリスを引き離して受話器を取る。
「もしも…」
『類、あんたゴールデンウィークなのに何やってんの?』
耳元で響いた甲高い声。母だった。相変わらず声がでかくて、途中で耳から受話器を離した。
「何って…友達といるけど」
流石に女の子を家に泊めてるとか、トランプと戦ってるなんて言えない。
『友達?帰ってきなさいよ。全く連絡しないで何やってるの』
俺の答えが気に障ったのか、ヒステリックに叫んでつらつらと話始める母さん。こうなったら黙って聞くしかない。近所の男の子がどうとか、ばぁちゃんがどうとか…。どうでもいいことばっかりだった。途中で真陽が起きてきた。アリスと顔を見合わせる真陽に片手で謝る。そのとき、受話器から妙なノイズが聞こえた。母さんの声が小さくなって静かになる。
「え、母さん?」
電波が悪くなった?それとも受話器が壊れたのか…?慌てて受話器を耳に当てる。
『こんにちは』
聞こえてきたのは凛とした、若い女の声だった。
「え…」
どことなくアリスに似ている気がして、彼女を見る。
『私のかわいいアリスは、そこにいるの?』
かわいらしいのに、どこかぞっとするような冷たい声だった。返事をしない俺に、電話の声は続ける。
『返してくれなきゃ困るの。私の…アリス』
「類…?」
黙り込んだままの俺に、困惑したように真陽が声をかける。
『あら、ふーん。そうなの。とにかく…今から遣いをおくるから、アリスを返してね。燃やしちゃだめよ』
くすりと笑って、声の少女はそう言った。遣い…。アリス。燃やす…?トランプのこと、なのか?だったら今のは…ハートの女王。
『ちょと類、聞いてるの?』
突然響いてきた母さんの声。
「あぁ…うん」
間抜けな声で返事をする。今のは…なんだったんだ。
「とにかく、ごめん母さん。俺、帰るわけにはいかないんだ」
そう言って電話を切った。
「帽子屋さん…?」
アリスが不安そうに俺を見る。今の電話は、何だったんだ。考えろ、考えろ…。
「トランプが、来る」
アリスの肩がびくりと震えた。それと窓がぱりんと割れたのが同時だった。
「真陽、アリスを連れて逃げてくれ」
アリスの前に立ってトランプを見据える。
「わかった。アリスちゃんこっち」
真陽がアリスの手を引いて外に出る。
「あ、類」
振り返った真陽が俺に何かを投げた。受け止めたそれは、銀色のジッポライターだった。
「ありがとう」
そう言ってアリスを追いかけようとしたトランプに火をつける。トランプは呆気なく燃えて、灰になった。
「アリスは殺させない」
守るって決めたから。
走っていくアリスを背にトランプに向かって行った。