踏み込めない境界線
「これで最後だって言っても、あなたは傷つかないんでしょう。」
彼はそう私に聞こえるかどうか微妙な声で呟く。
「うん?何か言った?」
私はそれに対していつものように聞こえないふりをした。
彼はいつものように複雑そうな表情をして苦笑いを浮かべる。
「なんでもありませんよ。先輩、荷物はこれだけですか?」
「うん、ありがとう。後は置いていくの」
彼の足元にある段ボール3箱。
そこには食器と衣服が詰め込んであるだけで、いままで買い集めた雑誌とかCDは別のところに置き去りにされている。
大きな家具はもう新しい家へと運び込まれていて、この町とも明日の朝でさよならだ。
「そうですか」
彼がそれ以上何も言わなかったので、私も何も言わなかった。
「今日は手伝ってくれてありがとう」
疲れたからどこかに晩御飯を食べに行こうと、そう誘ったのは私の最後の賭け。
彼は私に初めてできた後輩で、彼が入社したときからずっと一緒に仕事をしてきた。
一緒に仕事をして、晩御飯を一緒に食べるようになって、お互いの部屋に泊まるようになってどれくらいの月日が流れただろう。
それでも彼は後輩だからと、心の中で誰にでもなく言い訳を繰り返していた矢先の出来事だった。
私に本部への昇進の辞令がでたのは。
それを聞いた彼は、ただ素直に喜んだだけだった。
今までのように会える距離でなくなることを知りながら、笑顔でただ「おめでとう」と笑った彼に何だか無性に泣きたくなった。
いつだってお店を決めるのは私だ。
彼は黙って私の意見に従うだけ。
私はずっとそれが嫌だった。
彼は仕方なく私に付き合ってくれているのだと、なんとなくそう感じてしまってずっと嫌だった。
でも、最初に彼の意見を流してしまったのは私だったのかもしれない。
私はこの関係を、大事な後輩を失うのが怖かったのだ。
「今日ぐらい、僕に払わせてください」
いつものようにお会計をしようとした私に彼の手が重なる。
「でも…」
「今日で、最後なんですから」
今度は聞き流すことはできなかった。
「そう、だね」
うまく答えられたかわからない。
でも、私は、大事な後輩を失うのが怖いと思っていた私は本当は、彼を失うのが怖かった。
でも彼が最後に選んだのはやっぱり、私の後輩でいることだった。
それ以上に、彼は踏み込んでこない。
彼は私がいなくても平気なのだ。
そしてそれはきっと私も…。
「ありがとう、あなたみたいな後輩がいて私は幸せだったわ」
踏み込めない境界線 20xx.xx.xx